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カリフォルニアの大学院生活

広大フォーラム, 22期5号, No.284, 18-20 (1990.11.20)

広島大学理学部 前野 悦輝

鯨を観にいったときの写真
鯨を観にいったときの写真

 カリフォルニア大学サン・ディエゴ校(UCSD)に物理学科の大学院1年生として留学したのは1979年のことであった。UCSDは9校あるカリフォルニア大学のなかで学生数ではロス・アンジェルス校(UCLA),バークレー本校(UCB)に次ぐ規模をもつ。UCSDのキャンパスはカリフォルニア州の南端のサン・ディエゴ市郊外,ラホイヤ(LaJolla)という町にあり,青空とビーチの満喫できる環境にある。1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川氏もこのキャンパスで大学院生時代を送られたらしい。私は2年間ラホイヤのキャンパスで過ごした後,指導教授の異動にともなってニュー・メキシコ州のロス・アラモス国立研究所に移り,そこで博士になるまで大学院後期の3年間を過ごした。

 ラホイヤに着くとまず住む場所を探す必要があった。学生課に行くと「ルーム・メイト求む」の掲示がいっぱい貼ってあり,その中から適当なものをいくつか選んで電話をかける。結局,最初に連絡のついた生物学科の大学院生,Victorとキャンパスのはずれにある大学院生用のアパート村の2 LDKのアパートで2年間共同生活を送ることになった。アパートが決まるまでの間,キャンパスにある留学生センターに泊まることができたのには随分助かった。そこには世話役のアメリカ人学生が3名生活しており,当初のいろいろな相談にのってくれた。写真は大学院2年生の頃,他の友人らとVictorに連れられて,太平洋岸を南下してくる鯨を観にいったときのものである。

 新学期が始まると,いきなり学部の3年生の物理学実験のクラスを担当することになっていた。日本では学部生の学生実験や問題演習の授業はおもに助手(広大の物理学科ではその全員が博士である)が担当しているが,米国では大学院1, 2年生が教えるのが普通で,人手不足という面もあろうが,むしろこれを大学院生に対する教育のひとつとして位置づけているようである。大学院生は「教務助手」として給料を得る。準備や採点を含めて週20時間の労働で1979年当時毎月約600ドルであった。(当時の為替レートは1ドル240円くらいであったと記憶している。)学生実験の教科書と装置はすでに準備してあったが,実際の指導, レポートの採点,そして期末の評価まですべて教務助手が行った。

 南カリフォルニアの学生達は明るく開放的である。昼にはビーチで泳いで,すぐまた授業に駆けつけるといった雰囲気があった。授業の時間になると水着のような格好でやってくる女の子もいる,ローラスケートをはいて。また男でも裸足でくる奴とか,スケートボードで勢いよく教室に飛び込んでくる奴とか……。しかし彼ら学部生もそして大学院1年生も一方では宿題や毎週の小テストに追いまくられており,夜中近くまで開いている図書館は,連日閉館時まで学生でいっぱいであった。学生実験の授業には学生の質問に個別に答えるための相談時間「オフィースアワーズ」を毎週2, 3時間設けることになっていた。最初の学期は要領が判らず,つい日本的感覚で「解らないことがあればいつでも質問においで。私のオフイースはドコソコ」, と宣言してしまった。そのおかげで来るわ来るわ。とくにレポートの提出期限日が近くなると次から次からやって来るので「オフィースアワーズ」はほとんど「オフイースデイ」に延びてしまった。しかも相談を始めてみると「ココハドウシテコウナルノ?」 的質問がほとんどで,自分達で深く考える前にまず議論を始めてみるという傾向が強かった。さらに「3度モキタノニ,オフィースニ居ナカッタジャナイカ」という比判もあり,「コレジャやっておれません」と,次の学期からはきちんと質問時間を指定せざるを得なくなった。

 さて,米国と日本の物理学における教育制度を比較すると,最大の相違は大学院1年(M1)生のカリキュラムにある。広大に限らずわが国では同じ学期中に5つ以上(ときには10個くらい)の講義や演習を各々週1回並行して受講するのが普通に行われる。講義については学期末にレポートを提出したり,期末試験を受ける。演習の場合,普通セミナー形式で論文や専門書を読んで行く。米国ではM1生には研究の機会はまだあまり与えられず,その代わり大学院レベルの基礎教育が徹底的になされる。同じ学期中に受講できる講義はせいぜい3つで,各々毎週2回か3回の授業があり,期末試験の他に必ず毎週宿題(レポート)や小テストが課される。成績はA=4,B= 3, C= 2, D (不可)で評価され,平均点(GPA) が3.0以上ないと退学となる。さらにM1が終わった時点で2日間にわたる筆記試験があり,これに不合格だと,半年後にもう一度に限って受験機会が与えられる。こうして1年間もまれたのち, 20人いた同級生はちょうど半分の10人に減っていた。米国の法学部の大学院生活を描いたPaper Chaseという映画があったが,その生活がまさに現実にあった。

 大学院も2年目になるとそれぞれの研究室に配属され,本格的な研究を始めることになるが, M2が終わった段階で口述試験がある。まず物理学の現代的なテーマ3つが与えられ,それぞれに関する文献のリストが発表になる。3つのテーマの中に必ずしも自分の専門に近いものが含まれているとは限らない。その中からひとつを選択して2週間後,教授達の前で黒板を使って30分間程度の発表をし,それに引き続き1時間程度,教授達から浴びせられる質問に答えるというものである。これも1度に限り不合格が許される。修士号の取得には必ずしも論文の提出は必要とされず,大学院課程における修士号の位置付けはわが国の場合よりずいぶん軽いものだといえる。口述試験以降の,博士課程の研究や博士論文の審査に関しては,わが国のシステムと大差はない。

 わが国の物理学における教育システムでは,早くから研究に従事できる点(特に地方大学ほどその傾向が強いようである)では恵まれている。それゆえ,ある特定の分野の専門知識・技術の修得に関しては優れた教育効果があるだろう。その反面,いくら学部の段階での教育レバルが高いとは言え,大学院レベルの基礎教育の密度には大いに疑問がある。米国のシステムでは,物理学全般にわたっての視野というかセンス・発想という類を養おうとすることに, より重点が置かれているといえよう。

 いずれにせよ,私にとってのカルフォルニア大学院生活は最高に楽しかった。仲間と一緒に徹底的に勉強して,同時に体力の続く限り遊びまくって駆け抜けた2年間であった。